【アジャイルFAQ 番外編】正論が通らないとき…発注側や上層部が聞く耳を持たない場合の生存戦略
Back to Top この記事を読んでいただきありがとうございます。アジャイルグループに所属する、藤井智弘です。今回も、予告なしの番外編をお届けします。
第8回の最後に、「ステークホルダー側がどうしても動いてくれない環境での戦い方も、いずれこの連載のどこかで」と書きましたが、今回がその「いずれ」です。
と言いつつも、「上が理解しないからアジャイルができない?ごちゃごちゃ言ってないでやれよ」という、みもふたもない話ではあるのですが。
質問
#この連載の処方は参考になるのですが、その多くが最後は「発注側と交渉する」「組織に提起する」に行き着きます。うちの発注側・経営層は、はっきり言って聞く耳を持ちません。「現行通りやれ」「で、何人日?」「アジャイル? 流行りものはいい」で会話が終わります。正論(全てとは言いませんが、私には多くが正論のように思えます)が通らない環境では、結局アジャイルは無理なのでしょうか?
回答
# 無理ではありません。ただし、順序を変える必要があります。この連載の処方を「交渉に勝ってから実践する」と読んだなら、それは逆です。実践できるところを先にやり、実績を作り、実績を持って交渉する。交渉とは最初の関門ではなく、最後の仕上げです。
そして覚えておいてほしいのは、この連載の処方のうち、誰の許可も要らないものが思いのほか多いということです。
まず、相手の「聞く耳のなさ」を分解する
#腹立たしい話から入る前に、一度冷静に相手を観察します。聞く耳を持たない側にも、たいてい構造的な理由があります。
- 実績のない提案はリスクにしか見えない: あなたにとってアジャイルは合理的な提案でも、相手にとっては「よく知らないやり方に、自分の責任を賭けろ」という要求です。断るのは、その人の立場ではむしろ誠実な判断です。
- 変えないことが最適解になる評価構造: 現状維持で誰も罰されない組織では、変更の提案は「うまくいって当然、失敗すれば提案者の責任」という非対称な賭けになります。
- 過去に「カタカナの流行りもの」で失敗している: 何年か前の別の三文字略語で痛い目を見た組織は、看板を見ただけで身構えます。
つまり相手は、あなたの論理に反対しているのではなく、あなたの提案に含まれる不確実性に反対していることが多いのです。だとすれば、打ち手は「もっと正しく説明する」ではありません。不確実性を下げること——つまり、小さな実績です。第5回で、正論で押すと相手には「べき論の押し付け」と映り、かえってブレーキになると書きました。「正しく説明したのに通らない」で止まっているなら、それは同じ罠に囚われているのです。
生存戦略
#今回はいつもの「処方」ではありません。原則です。
第一原則: 許可の要らない領域から始める
この連載の処方を「許可が要るか」で仕分けし直してみてください。割り込みの記録(第12回)、レトロの冒頭で前回Tryを確認する(第7回)、ボードの右端から歩く(第6回)、そして今後の回で採り上げていく予定の、決定事項の棚卸し、改修リードタイムの記録、ADR(意思決定の記録)を10行書く…これらは全部、誰の許可も要りません。チームの内側で完結する改善と、記録・計測は、今日から始められます。
暴論にならないように申し添えておくと、監査や契約で作成が義務付けられた文書の扱いだけは裁量の外です。同様に、社内の開発標準が適用される案件で進め方そのものを変えるなら、それは標準の適用除外の手続きに乗せる事項であり、「許可の要らない領域」ではありません。
落ち着いて見直してみましょう。「上が動かないから何もできない」は、たいてい事実ではありません。
第二原則: 実績を先に、交渉を後に
小さく始めて、数字を持ってから話しに行きます。「アジャイルを導入させてください」ではなく、「この3ヶ月、割り込みを記録したらキャパシティの4割を食っていました。来月から受付を一本化させてください」。前者は思想の議論になり、後者は事実の議論になります。思想は好みで却下できますが、事実は却下しにくい。この連載が繰り返し「まず測れ」と言ってきたのは、計測が改善の道具であると同時に、権限のない者の交渉力の源泉だからです。
第三原則: 看板を下ろして、中身を通す
「スクラム」「アジャイル」という言葉が扉を閉ざすなら、言葉を使わなければいいのです(正直に吐露しますが、私には「出来ないヤツほど手法の名前を前面に出す」という偏見があります)。スプリントと呼ばずに「2週間ごとの区切りで確認会をやります」。レトロと呼ばずに「月次の業務改善ミーティングです」。バックログと呼ばずに「優先順位付きの課題一覧です」。中身が回り始めて成果が出たころには、名前はどうでもよくなっています。看板への忠誠より、中身の実践です。
誤解のないように付け加えると、これは決められた手続きを黙って迂回する話ではありません。自分たちに認められた裁量の範囲で、呼び名を相手の言葉に合わせるだけです。だから…
- 直属の上司には「呼び名を変えて運用している」と伝えておくこと
- 提案書や契約書に開発方法論が明記されているなら、その文言との整合を先に確認すること
- 開発標準の成果物名で報告が求められるなら、チームの呼び名との対応表を1枚作っておくこと
この3つを外すと、迂回と区別がつかなくなります。むしろ、名前を使わずに説明できるかどうかは、自分が中身を理解しているかのテストにもなります。
第四原則: 負けた交渉は、記録して再挑戦の弾にする
提案が却下されたら、却下された事実と、その後に起きたこと(予測していたリスクが実際に起きたか)を淡々と記録します。置き場は個人メモではなく、チームの課題管理表やインペディメントリスト(チームの障害物を一覧化した公式の記録)のような公式な場所に。感情を挟まず、恨み節にせず、事実だけ。「4月に受付一本化を提案し見送りとなった。5〜7月の割り込みは月平均◯件で、うち◯件が納期遅延に直結した」。この記録が2〜3回分たまったとき、同じ提案の通る確率は大きく変わっています。
組織はしばしば、最初の提案は退けるが、事実の蓄積には折れるものです。それは組織の側の生存戦略としては合理的です。それを前提に備えておきましょう。
第五原則: それでも動かないなら、持ち出せる資産に投資する
すべてを尽くしても動かない組織は、残念ながら存在します。そのときに覚えておいてほしいのは、ここまでの実践——計測の習慣、記録の規律、小さく完成させる技術、看板なしで本質を説明する言葉——は、すべてあなたとチームに蓄積される資産だということです。組織に残っても積み上がり続けますし、どの環境に行っても持ち出せます。組織を変えられなくても、自分の実力と市場価値は確実に変わっています。
これは転職の勧めではなく、投資先の選択の話です。組織が動くかどうかはコントロールできませんが、自分が何を学ぶかはコントロールできます。
なぜこの状況は30年繰り返されるのか
#権限のない者が現場から組織を変えようとする、という構図自体が、ソフトウェア開発の歴史そのものだからです。思い出してほしいのですが、アジャイルは経営層のトップダウンで生まれた方法論ではありません。重量プロセスに苦しむ現場の実践者たちが、権限のないところから小さく実践し、実績を持ち寄り、言葉を与え、やがて業界を動かした——草の根の運動でした。
つまり「聞く耳を持たない相手の前で、それでも小さく始める」のは、アジャイルにとって例外状況ではなく、出生時の姿です。あなたが今いる場所は、30年前(あるいはもっと前)に先人たちがいた場所と同じです。そして彼らの武器も、今のあなたと同じでした。
小さな実践と、記録された事実。
それで十分に、始められるはずです。
次回: 「POが多忙でチームに来ません」/本編の連載一覧は第1回をご覧ください。



